昭和46年12月5日 朝の御理解
中村良一
御神訓
一、 生きても死にても天と地とはわが住みかと思えよ。
天地は神のふところと、信心の栄光の文句の中にありますよね。天地は神のふところと。ここでは、天と地とは、わが住みかと思えよと。生きても死んでも、行くところは、やはり、天地より他にはない。いわゆる、天地の親神様のふところ以外にはないのだと。それが分からせて頂く、それが確信させて貰うところから、次の、天に任せよ、地にすがれよと言う御神訓がありますように、ね。任せるより他になし。おすがりするより他になしという信心が出来てくる。そこから、人間の、いわば、幸せ、こら、霊肉ともに、いわゆる、生きても死んでもの幸せの道が開けてくるのです。先ず、だから、いわゆる、私共は、ね。神様の、親神様のふところにあるんだと言う事を、本当に実感して分からなければいけない、ね。マルショウの方達でも、信心の栄光を歌っている。あの文句の通りなんです。ね。天地は神のふところです。神様のふところです。天地の親神様のおふところ。その、懐の中に、いわば、抱きかかえられておるのが私達。ですけれども、それを知らない人、または知っておっても、信じていない人は、ね。すがることもしなければ、任せることも致しません。それでは、人間の幸福はありませんし、勿論、御霊の安心もありません。ね。教祖金光大神は、その様な大変な事を、ご自身が、おかげを受けられて、私共に、その、いわゆる事実をね、教えて下さってある訳です。
そこで、どうしても、私共が、なるほど、天地の親神様のふところの中にあるんだなぁという事を分からせて頂くために、一つ、お互い、信心の稽古をさせて頂いておる。すがらなければおられない。任せなければおられない。任せ、すがると言うところにです、これは、どうでも神様が、おかげを下さらなければならないと言う、ね。神様が、いわば、おかげを下さる事になるのです。ね。それを、いわば、御神徳というのであります。ね。ですから、これは、金光様のご信心だけの事ではないと思うのですかれども、信心とは、結局、御神徳を受ける以外にはないです。ね。それを、ただ、おかげの所だけで終わってしまう。ただ、神様を利用するという事だけに終わってしまうと言うような信心では惜しい。任せられることは任せるけれど、任せられんことは任せられんといった様な事では、だから、神様のご信用が着く筈はありませんよね。
任せてみて、初めて、なるほど、神様じゃなぁという事が分かるのです。もう、ですから、日々が、任せる生活。日々がおすがりする生活。この二つが、相まって行かなきゃならん。すがらなければおられんのであり、任せなければおられんのである。ね。そういう、御神徳などと言うものは受けなくても良いと。おかげさえ受ければという様な、私は、安易な考え方ではいけない。
昨日、神愛会でしたから、先生方の会です。で、まぁ色々とお話させて頂いたことですけれども、中に、久留米の岡崎さんと言う方がおられますが。岡崎さんが、毎日参って見えられます。最近、非常に、何ち言うですか、信心の心境が、いわば、進んでいっておる。ね。ところが、昨日一昨日でしたか。お参りしてきて見えて、先生、今朝方から、不思議な夢を頂きましたち言う。それは不思議な先生、夢ですよち言うてから話されるのが、富士山の山をです。富士の山です。ところが先生、そこまでは良かですけども、あーた、その富士山の山がですね、途中からですね、ほら富士山の山と思いよったら、途中から、べろ出したち言う。あっははは、ちょいともう、面白いお話ですねと言うてから、聞いたことでした。こう皆さんが、想像して見て下さい。富士山がこうある、途中からべろ出したち。ほうら、可笑しな事がるもんだなと思いよったところが、それが、鷲やら鷹になって行くところを頂いたち言う。そのべろが。そしたら先生、今度は、次には、その鷲やら鷹やら、そのべろがね、舌ですよ、この舌。ね。このべろがね、鷹やら、鷲になったと思うたら、今度は次には、亀のね首になったち言う。亀の首が、こうやって、首を出した。ちょっと当ったら、さっとこう、あの、首を引っ込めましょう、亀が。そういう状態であった。まぁちょいと面白い夢じゃったけれど、これはやっぱり、御神夢じゃろうと思います。大体、面白いお届けですから、神様も、やっぱり、面白う、可笑しゅう教えなさるのだと、私も思いましたですね。しかしもう、実に、その素晴らしい姿のお夢なんですよ。これは、私が、皆さんの、一人ひとりに掛けておる願いというのはです、ね。ほんの皆さんの、一人ひとりがです。言うならば、億万長者に、福岡の初代じゃない吉木先生、三代の。が、そう仰っておられますですね。信者の一人ひとりが、億万長者になられる様にと言うて、願っておると言うておられましたが。私は、まぁ、皆さんが、一人ひとりが億万長者になられなくってもです、ね。それぞれ一つ、本気で、日本一を目指せという事です。ね。私も、日本一を目指しておる。それは、日本一に偉い先生といった様な意味じゃなくてです。もう、これだけは、合楽の先生の独壇場といったようなもの。まぁ言うならば、もうとにかく、日本一有難い私にならせて頂こうという様な願いを持っておる。
言うなら、富士は日本一の山という、富士の山を目指しておる訳です。富士の山の頂上を目指しておる訳です。ところが、岡崎さんの場合は、そげん、親先生が言うごたる、頂上まで行かんでん、もう途中ぐらいで良かろうててから、べろでーとるとじゃ。話を聞いてみりゃ、はっははは、ね。しかも、その、べろを出すという事、そのこと自体がね、我だと言うのです、人間の。鷲とか、鷹とかというお知らせは、人間の我のお知らせです。鷲がとか、私がとかと言う、それなんです。ね。自分で決めてしもうておる、おかげを。もう、途中で良かと思うとる。そら、なるほど、日本一になれんかも知れませんけど。目指すところは日本一。まぁ例えば、御神徳などという言葉を使いますと。その御神徳は頂かんでも、おかげさえ頂きゃと言うけれども。なるほど、そうだ、この事を通して、御神徳を頂く稽古をさせて頂くという気になることなんです。ね。その御神徳を頂かせて頂こうという、ね。ですから、いわば、そのかかりが違う、姿勢が違う。
私は、夕べ、始めて、ははぁ、こういう御用。昨日は、マルショウの方達が、合宿しておりました。十二時ごろだったでしょうか。最後の御祈念に出てこらせて頂いて、暗いところを来よりましたら、久保山君が、恵介君を、もう、こう眠っとっとば、こう抱きかかえてから、こう連れち来よりますもん。どうかしたのち言うたら、いいえ、小便まり連れち行きよりますち言う。あっはは、夜中に、一遍ずつ起さにゃいかん訳です。昨日、お母さん方に頼まれとるか、どうか知らんけれども。もう、本人は眠って覚えんごたるとば、こう抱えちから、連れて行きよるとを見てから思いました。有難いなぁと思って、ね。もう、言うならば、少年少女の時からです。こげな風にして、信心の稽古をしておるということ。ね。だから、折角、信心の稽古を、そのようにして、させて頂いておるのですから。僕が成功せんならん、徳を頂かんならんという様な事ではなくてですたい。ね。折角、そういう修行をさせて頂くのですから、そういう信心をさせて頂くのですから、ね。神様の御神徳を頂かせて貰う事のために、信心しなければ馬鹿らしかという事。ね。
これも、昨日、神愛会の中で、お話したことですけれども。昨日、私、ここへ座らせて頂いておって、お知らせを頂いたのがね。こういう様な事を頂いた。分からないでしょうかね。数字の6という字、66665じゃん。こら、どれだけになりますかね。六万六千六百六十五という事になりますかね。プラスの五、数字の5、書いてみてください、どうぞ。66665プラスの5イクオール、六万六千六百六十六という事になりますかね。ね。そうですね。六万六千六百六十になるですかね。皆さん、これ、意味は分かるでしょうか。だから、まぁちょっとね、次にヒントとして、六という字をね。賞禄の禄という字を書いて下さい。何万石というでしょう。禄を食むという、あの禄です。衣偏にこうですね。禄プラスの業という、業を業という字を書いて下さい。家業の行の業。ね。という意味なんですよ。ね。結局、信心とは、徳を受けることだと。禄と言うのは、お徳という事。ね。プラスの五と言うのは、数字で言えば、この五ですけれども、これを漢字に直すと業という事になる。業という事は、これは、仏教的な言葉ですね。業が深いと言うでしょう。難儀のある人は、私は業が深いとこう言う。いわば、めぐりという事なんです。ね。巡りが深いという事なんです。でその、巡りという事は、言うなら、困ったこととか、ね。いわゆる、難儀と。その業の現われが、巡りの現われが難儀という事になっておるのです。けれども、その業はですね、ね。その結局は、それは困った事でもなからなければ、悲しいことでもなくて、神様のご真意というものは、禄を与えたいばかり。言うならば、業というものは、ね。人間氏子に、お徳を授けたいばかりの働きを、私共の、その頂き方では、難儀が難儀だけであって、ね。それがお徳にならない。そういう、難儀な時です、ね。私共が、生きても死んでも、天と地はわが住みかと思えという事が分かる。生きても死んでも、とにかく、天地金乃神様の、親神様の懐の中にあるんだという事が分かる。分かるから、次に、天に任せよ、地にすがれという事になるのです。もう、人間の知恵やら力では、どうにも出来ないという時になりますとです。ね。大概な物が、神様の前に、無条件降伏してまいりますけれども、ね。自分で、これだけは。私が、これは自分がと言う、我を出す。ね。もう、一切合財が、天に任せて、地にすがらせて頂いての生活でなからなければならないと言うこと。そこで、私共が、天に任せて、地にすがると言う信心が、おかげを頂くことになって来るのです。ね。もう本当に、お任せした生活。お任せした生活ちいうのは、ただ、安気安穏に、ちゃんと、じっとしとくという事じゃないです。ね。一生懸命働きもする、努力もする、ね。けれども、その結果を望まないという事です。お任せしてあるのです。給料は貰うから働いておるというのじゃないのです。ね。ただ、自分の手元の所を大事にする。いわゆる、何事も信心になれよという信心になるだけ。報酬は神様が下さるものと頂く訳なんです。
そこでです、ね。任せるという事なんですけれども、ね。一番最高の任せ方。こら、任せると言うのは、大体もう、そうなんですけれども、任せると言うからには、いわゆる、ね。死んでもままよという様な任せ方なんです。神様にお任せをするという事は、もう、右とか、左とかとは、もうあなたにお任せしたという事なんです。ね。言うならば、命までも任せるという事なんです。
私は、昨夜、遅う、お夢を頂いた。そのお夢が、私の娘であります、愛子が、御棺の中に入っておる。寝棺です。ところが、その棺が、いわゆる、ボール紙で作ってある。しかも、それに、真っ青な、青い、ね。いわゆる、グリーンの色紙が貼ってある。中へ愛子が、中へこう寝ておるところを頂いた。夢の中で、どんな事だろうかと、私が思わせて頂きよったら、ね。お礼に参ると頂いた。ね。そしたら、愛子がもう、それこそ、あれが、足の舞い、手の舞というのであろうかという様に、もうそれこそ、喜んで、お礼の舞を舞っておるところで目が覚めてから、びっくりして、目が覚めて起きらせて頂いた。ね。
丁度、昨日で、丸八日間、断食修行をしておりました。もう、それこそ、水気一つ取らん、御茶一服、御茶一つ飲まんのですよね。普通は、牛乳なんか飲んだり、食塩水を頂いたりするですけれどね。今度の、愛子の場合はもう、その、御茶も水も取らんという修行でした。八日間。まぁ、こりゃ、親の私としてと言うよりか、信者さんが、そげん修行なさいますと、もう、そげなこつは、いっちょ、止めてくれんのと言いたいごたるですけれどもね。本人が、一生懸命やると言うのですから。ですからもう、こっちのほうが断食しとるごと、やっぱ、思いますね。これは、愛子だけの事じゃありません。皆さんがなさると、そうです。そして、今日お許しが出るじゃろうか、今日お許しが出るじゃろうかと思います。けども、初めから、三日間なら三日間、一週間なら一週間と、日を切ってする人もあります。けれども、いわゆる、無期限の断食です。神様から、お許しを頂かんなら、飲みもせん、食べもせんと言う修行なんです。ね。
これは、どういう事かと言うとです。もう、命を任せた訳ですよね、神様に。ね。このまま、例えば、食べることを許されんならば、やはり、日干しになってしまいます。けれども、それも覚悟でです、ね。そういう修行に取り組むと。私は、その辺の所が、こう言う表行を、私は進めはしませんけれども。そういう、一生懸命の、死んだ気でという様な心が出せる事が、尊いと思いますね。素晴らしいです。ね。その中にです。本当に、今月今日、只今、ずーっとその、修行中に、私が頂きますことは。合楽に、これだけの信者がおるけれども、今、愛子ぐらい、神様に、密接に、有難い、勿体ないを言っておるのは、いないと言うようなお知らせを頂きました。そら、例え、その間であってもですね。こらもう、誰も、目にでらない。それこそ、自分で言っておるように、もう今月今日ではない。今月今日、只今が、生神金光大神、天地金乃神に一心にすがらなければおられないのである。ね。いわゆる、天に任せて、地にすがるという事が出来る訳なのである。ね。しかし、本当にこの、何と言うですかね、親子の情というか、そういうものが、やはり、素晴らしいと思います事は、昨日,牛乳が、一合あまり残っておりましたから、牛乳を、すぐに、あの、まだ、十二時ごろ起きておりましたから、温めてくれて、良子さんと二人ですぐ、牛乳を、熱めではいきはせんから、まぁ、熱くて、愛子はまぁだ、お広前で御祈念をしておりました。それで、あの、まだ、出来上がってから言いなさい。いないといかんからと言うて、まぁ牛乳を沸かして、そして、飲み加減に冷ましておいて、それから、御神飯を一つ、一緒にいただきますと、やり損ないます、あの断食の後は。ですから、それを、沢山な水で、その、重湯の様にして、今晩は、頂かせていただく、出来てから、愛子に言いなさいと、こう言うて申しましたがね。愛子が、それを頂いてから、それから、私の所へ、お礼に出てまいりましてから言うんですよ。
今日はあの、御母さんと二人で、テレビを見よったち言う。そしたらね、おじやの作り方かなんかが、テレビでありよったそうです。ね。そしたら、それで、家内が、愛子ちゃん、今度、お許しを頂いたなら、お母さんが、美味しいおじやを作ってあげようと、その言うたそうです。ね。それを言うた途端にですね、その、おじやのテレビがあったそうです。おじやの作り方というのが。家内が、愛子に、それを言うた。その次に、画面にですね、おじやの作り方というのがある。その時に、愛子が、はら、これで今日はお許しが頂けるのじゃないだろうかと、こう思うたと言っておりました。しかし、本当にその、何ち言うですか、何か繋がっておる思いが致しますね。
昨日、御手元という事を頂いておりました。自分ちで。平仮名で、おてもとと、御結界奉仕をしておる時に頂いた。だから、いよいよ、手元の所をしっかり、分からせてもらわにゃいかんぞ。手元の所を、しっかり考えさせて貰えと言うておった訳ですけれども。私は、お手元とは、お箸のことだとお持てました。ね。ですから、はぁ近付くな、この次には、御茶碗のお知らせを頂くだろうか、なんだろうかと、こう思うておった。ところが、直接、私に、例えば、死んだ気で御棺の中に入っておるところであり、その事が、神様に通うところとなり、ね。許されて、言うなら、その事を、いわゆる、天に任せて、地にすがれたと言う、その事が、ね。(?)に、いわゆる、前という事は、それこそ、手の舞、足の舞、ね。お粥さん一杯を頂くという事が、その様に有難いこと。その様に嬉しいこと。一杯の牛乳が、もうその様に有難いこと。難儀なしには頂かれん。それこそ、涙、ぼろぼろ流しながら頂いておる。ね。表行と、よく言うけどもね。その焦点を間違えなかったら、表行は素晴らしいです。そしてです、例えば、そういう、本当にね、こりゃもう、本当に、度胸付けしなきゃ表行は出来んのですよ。大体なら、水一杯頂くでん。ね。ましてやです。神様から、許されるまでは、食事を取らないという様な修行と言うのは、もう、そこに命を掛けなければね。いわば、命を掛けると、一生懸命なんです、言うなら。ね。ならなければ、どんなことでは、神様にお仕えすることは出来ません。ね。いわゆる、天に、まぁ任せ、命までも任せてしまうわけ。そして、今月今日、只今をすがっておるという事です。どうぞ、食べさせて下さいと言うて、すがるのじゃないですよ。ね。それはもう、実に、こりゃ、断食修行した者でなからにゃ分かりませんね。もう、淡々として、もう、何時まで続けたっちゃ良かち言うごつなりますよ。もう、一週間ぐらいなりますと。ね。
ですから、私は、今日、皆さんに聞いて頂きたいのはね。本当に、先ず、私共が、生きても死んでも、天と地は、わが住みかと思えという事が分からにゃいかん。いわゆる、天地は神のふところであるという事が分からにゃいかん。ね。それを、実感として、分からせて頂くために、本気で、天に任せて地にすがるという事に、何かの、そこに問題が起きた時、難儀な問題が起きた時に、あれやら、これやらと、人間心を使わずに、神様に、お任せしきるという事が、天に任せたことになるのであり。それでも、そこから、おかげを受けなければならない所から、すがっていくと。それは、丁度、乳飲み子が、母親の膝にすがっていくようなもの。そして、お乳をおねだりする様なもの。親のふところのなかにあるのだから、ね。そらもう、当然の事、人間としては。ね。
そこから、天に任せて地にすがらせて頂くところからです。ね。どういう結果が生まれてくるかというとです。例えばね、任せてすがるという事。例えば、しかもそれが、命までも任せられるという事。ここに、神様のご信用が付かん筈はないですね。もう、あなたにお任せしきった。あなた一人しか、お願いする人はありませんと言うのですから。ね。そういう生き方にです。いわゆる、禄が頂けれると言うのですね。だから、私が、昨日、頂いたのは、66665と言うのですから、これには、また深い意味があるのです。ね。お互いが、禄を一つずつ頂いていく訳なんですね。御徳を一つずつ、積み重ねていくわけなんです。ね。けれども、何時も、最後の所は業である。人間に、難儀が絶えると言うはずは、絶対ない。何かそこに、難儀というものを感じる。けれども、それを、巡りのせいだ。それは、業のせいだと言う訳であります。ね。最後の禄業というところに、また、あれから業をプラスしていく事によって、またそれが禄になる。してみると、その難儀というものはですね。例えば、業が深いとか、巡りが深いと言うけれども。その巡りそのものが、有難いんだという事が分かる。そのめぐりが、そのまま、変身した時には、もうそれが、徳になっておるという事。禄になっておるという事。
そこで、私共が、分からせて頂かなければならない事ですけれども、ね。折角、信心をさせて頂くのですから、ほんなら、今日は、マルショウの方達が多いから、マルショウの時代から、こうして、信心の稽古をさせて頂くのであるから、ね。その信心の稽古がです。ただ、おかげとか、ご利益という事ではなくてですね。こうやって、本当に人間の、正しい生き方というものを学ばせて頂いて、ね。神様から信用の受けられる人間氏子にならせて頂くという、お徳を受けさせて頂く事のために、もう、稽古がなされておるということにならなければ馬鹿らしいという事。いや、そげん、御神徳やらを受けんでん、おかげさえ頂きゃ良かと言う、岡崎さんが、お夢の中に頂かれたように、ね。富士山は富士山だけれども、富士山の頂上を目指すのではなくて、その中腹からです。べろを出しとるち言う様な事じゃいかんち言うこと。ね。しかも、それは、どういう事かと言うと。いや、これから、自分でやっていけると思うから、神様にすがらんという、それから先は。ここまでは神様にすがるばってん、これから先は、自分でやって行こうというのが、鷹になったり、鷲になったりと。それが人間の我だという事である。だから、そういう我というものを、私共は覗かせて頂いて、例えば、亀の首に変わったという事は、親先生の信心に習えという事であろうと思う。
私共でも、やはり、こうやって、おかげを頂いておれば、これで完璧という事では、決してない。いつもその、御粗末ご無礼に気付かせて頂いて、ご無礼を、尚重ねておるような状態。それでも、神様が、ちょっとお気付けを、ぱっと下さったら、ちかっとこう、首を引っ込めて仕舞うでしょう、亀が。ね。私の信心の、まぁ言うなら、値打ちと言うのは、そういうところに、非常に転身が早いですね。身を替えていく、次に。お気付けを頂いたと思ったら、ぱっと引っ込める。ね。私は、そういう信心を習うていけと、岡崎さんは、教えられたんだとこう思うです。そういう信心を、させて頂きながらです。いよいよ、ね。禄プラスの業は、いわゆる、御徳という事になる。禄プラスの業イクオールの御徳という事になる。ね。
ですから、如何にその、巡り、難儀そのものを大事にしなければならないかという事が分かる。為に、先ず、なんと言うても、生きても死んでも、天と地はわが住みかと思えという事。ね。生きとる間だけじゃない。いわゆる、御霊の世界に入ってからでもです。ほんなら、御霊の世界が、どこにあるかと言うと。天地より、他に行くところは無い。やはり、天地の中にあるんだという事を分からにゃいけん。ね。その、なるほど、天と地との中にという事、いわゆる、歌の、信心の栄光の歌詞ではないですけれども。ね。天地は神のふところなのである。なるほど、神様のふところの中にあるんだなぁと、分からせて頂くという事の為に、修行しようという事である。ね。
なるほど、天地の親神様がです、ね。例えば、ほんなら、愛子の、この断食修行の場合、前の日、もう、これより以上の苦労をさせたくないと言うのが、神様の願いであろうけれども。折角、これだけの修行をしてもらいよるから、手元の所をと、お手元というお知らせを頂いておる。手元の所を大事にせよと。ね。この修行を境に、手元の所を大事にしようやと。と言うて、暗に、明日は許すぞと言わんばかりの、こうあれがあっておる。ね。それから、家内と二人でテレビを見ながら、その感じたと言う、ね。おじやの問題である。あんたがお許し頂いたなら、ね。おじやを、いっちょ作ったやろうと、言うた途端に、画面がおじやを作る、ね。画面があったとこう言うのである。はぁ、今晩お許し頂くのじゃなかろうかという様な、まぁ気がしたと、その言っておりますがですね。それを、ほんなら、今度、私に、次の、そこん所を、祝うて舞えという様な、神様がね。とにかく、祝うて下さるようなおかげを頂くわけなんです。それは、どういう事かと言うと。もう神様に、例え、一週間であっても、命を任せたという事なんです。ね。自分の我情我欲を捨てて、あなたに任せたと。いわゆる、天に任せたのである。そして、今月今日、一心に頼めと仰るが、なるほど、人間は、すがらなければ織られない、頼まなければおられない。ぎりぎりの所に立った時にです。生神金光大神天地金の神に一心に願うという事もです。一心に、今月今日だけではない。今月今日、只今をすがっていかなければおられないほどしの私達だという事。という事が分かった。ね。そして、許されてから、涙ながらに、その、いわゆる、重湯のようなものを頂きながらです。涙が、ぼとぼと流れるほどしにです。なるほど、親神様じゃなぁ、親じゃなぁ、神様じゃなぁという事が分かる。ね。
なるほど、天地は神のふところであるという事が分かるのです。ね。それを、私共は、分からせて頂くために、例えば、修行すると言うても良い。ね。そこから、任せることになる。天に任せて、地にすがらせてもらう信心にならせて貰う。そこにね、お任せしたが一番。ね。と言うおかげ。勿論、そこには、任せて、すがらせて貰うところの信心生活というものがある訳です。
昨日、私は、親鸞聖人様の法然との出会いの所を読ませて頂いておった。法然上人との出会いの所。ね。それこそ、まぁだ、二十幾つの若さで、緋の衣を許される。もう、それこそ、叡山きっての名僧知識と言われるほどしに、いわば、成功したけれども。どうしても分からないことがある。ね。と言うのは、人間がですね、例えば、その妻帯をしてはならんなんて言う様な事が、どうにも合点がいかんという訳である。ね。自分の周囲に、沢山な坊さんたちがおられるけれども、なるほど、口には真を語りつつ、心に真のなきことであって、ね。こそこそと、色んな、その、事をやっておる。そういう事では合点がいかん。徹底して分かりたいと言う、そこから、下山、そして、法然上人を訪ねるという事になって来るわけです。そして、法然上人の、いわゆる、思想を聞かせて貰って、ね。初めて、今まで自分が、その勉強してきたと言うかね。百日の参篭、聖徳太子の廟に詣でられましてね。そこんところを、もう、それこそ、難行苦行させて頂いて、本当の事が分かりたいと言うて願われておる。そして、色んな啓示を受けられます。その啓示と法然上人の言われたことが分からせて貰う。ね。それから、自分の好きな女の方と結婚される。その時の絵が残っておるそうですが、当時は、押し車というのに乗りましたんですね。牛が引く御所車です。その御所車の中に、その、親鸞聖人と玉姫様と一緒に、その車に同乗しながら、法然上人の御話を聞きに通うておるという絵が残っておるそうです。もう、その当時としては、大変なことだったろうと思うですね。男と女が、いわば、御簾を垂れた車の中に乗りながら。しかも、お寺参りをしておる。御話を聞きに行くと言うのですから。ね。けども、そこんところにです。例えば、助かりがあった訳です。ね。法然上人が助かっておられた証拠なんです。
そこんとこを読ませて頂きよりましたらね。あの、映画俳優に加藤大助と言うのがおりましょう。加藤大助と頂くんですよ。ね。加藤とは藤を加えると書いてありますね。大助とはおお助かりと書いてあるでしょう。ですからね、親鸞聖人という人は、どこまでもです。だから、藤の花の様な信心をした方なんです。ね。下に下がって下がって、それでも、下から見事な花の、生き仏様のようにあがめられた訳です。ところが、私の生き方は、下のほうへ下がる藤の花じゃなくて、上に出る富士山の山なんです。ね。ここに、親鸞と大坪総一郎の信心の相違がある訳です。ね。
ですから、例えば、これは、親鸞聖人にしたところでです。ね。(?)上人にしたところで、もう本当に、晩年の亡くなられることまで、難儀が続いておったという事です。ね。先ず、第一に、これにお金があったら、ええけれどもと言ったようなところが、幾らも出てくる訳です。ね。それは、どういう事かと言うとですね。いわゆる、神様は信じてはおるけれども、神様から、信じられてはいないという事なんです。これは、人間じゃき、これは当たり前だと。いや、むしろ、これは、有難いんだと言う頂き方でも、神様が、それを責めなさるという事は、決して無いと。仏様、いや、地獄なんか無いとこう思うたんですよね。やはり、頂いたんです。だから、事実、そうなんです。そこに、ほんなら、大助かりがあったんですよね。自分がもう、楽になった。助かった。けれども、その生き方ではね、神様から、信じられると言うところか無いのです。教祖金光大神はね、それから先をとかれた訳です。ね。神を信ずる氏子は多いけれども、神から信じられる氏子が少ないと仰るように、ね。だから、神様に信じられるためにはです。そこは、ぐっと、やっぱ、辛抱するところは辛抱しなければいけない。ね。そして、下へ下へ下がるのじゃなくて、上に上に出て行くと言う、同じ藤でも、藤の花ではなくて、富士山のほうへなって行かなきゃいけん。頂上を目指さなければいけない。ね。そこにです、例えば、神様のご信用が付く。ね。
猫は、生臭きが前に猫がおれば、もう、そら盗るのは当たり前のごとある。はぁそげんとこへ置くと、猫に盗られるぞという事になるけれどもです。その猫がです、例えば、飼い慣らされて、その生臭きの番でもするごとなってごらんなさい。ね。その猫は、もう人間並みに扱われますよ。はぁ座布団を作ってやったり、ちゃんちゃんこ作ってやったりするでしょうが。もうそして、家の猫はもう、鰹ん番ばする様になっとりますよと言うてから、言うでしょう。人間でも同じこと。ね。人間じゃき、生臭きを食ぶるとは当たり前という様な事じゃなくてです。その番ばするぐらいにならせて頂くと、神様のご信用が付いて来る訳です。ね。そこからです、ね。人間ではあるけれども、もう、猫は猫並ではなくて、猫が人間並みに扱われるように、人間が、神様並みに扱われる様なおかげをです。私は、親鸞聖人様は頂いてごららじゃった。(?)上人は頂いていなかったと思うのです。ね。人は生き仏様の様に言うたけれどもね、神様は、そうは扱っていなかったと言う訳です。そこに、難儀は続いたという事になるのです。ね。このことは、まぁだ、沢山話したいですけれどね、今日はもう、時間がございませんから、その事を、いわゆる、加藤大助と頂いた。そういう生き方でも助かりはあると。人間が、何の差障りもない助かり方が出来る。ね。ある意味合いでは、ドライな頂き方と言うても良いでしょう。心に呵責を感じないのですから、ね。けども、金光様のご信心は、それから、もう一歩、前進して、神様に信じられる氏子になるという事にあるのです。今日は、神様に、信じられることの為に、先ず、生きても死んでも、天と地はわが住みかと思えが分らせて貰い。そこから、天に任せて地にすがる信心をさせて貰うて、きつい、きついけれども、すがっていくと言うね、生き方からです。もう不思議に道が開けてくるのですよ、ね。
これは、愛子が、断食にかかって、すぐに頂いております様にですね。本気で登ろうと思えば、登る道が、ちゃんと付いて来ると。渡ろうと思えば、渡られる道が、ちゃんと付いて来るという事を頂いておる。もう、こげな研創な山に登られるかと思うておったんじゃ駄目だ。登るという事になったら、ちゃんとそこに、手のかかるところがあった。足のかかるところもあった。いよいよ、いかんと言う時には、上から、桂こうやって這うてきとった。その桂にすがって、当時は、登らせて頂くという様な道が、ちゃんと、付いて来るもんだと。人間だから、そげな事は出来んという様な事ではなしにです。それには、やはり、例えば、ある意味において命がけ。言うなら、一生懸命、ね。神様から、もし許されんなら食べんといったようなね。一生懸命が必要という事になって来るですね。天に任せて地にすがらせていただく信心。生きても死んでも、天と地はわが住みかと分からせて頂くために、私は、天に任せて地にすがる信心が求められるという事だと思うのです。どうぞ。